熊谷蓮生上人の往生について

熊谷蓮生上人は西山浄土宗総本山光明寺の開山上人です。
平安時代末期から、鎌倉時代にかけて戦国武将として活躍された方ですが、訳あってお念仏の道に入られ、お念仏に生きた方でございます。
ここでは蓮生上人が往生された年月についての所説をまとめました。


「吾妻鏡」承元二年
(以下 現代語訳)
≪資料1 吾妻鏡9月3日≫(←クリックでリンク先を開く)
熊谷小次郎直家が上洛の途に就いた。これは父の入道蓮生(熊谷直實)が来る14日に東山の麓で臨終を迎えると宣言したため、看取るのが目的である。出発後にその経緯を御所に連絡し、珍しい事だと評判になった。
大江廣元は 「前もって死期を知るのは神仏でなければ有り得ないが、彼は出家してから浄土を願って念仏修行を続けている。敬意を以て信じるべきだろう。」と語った。

≪資料2 吾妻鏡10月21日≫(←クリックでリンク先を開く)
東平太重胤が上西門院への奉公を済ませて京都から帰還し、すぐ御所に呼ばれて洛中の様子などを報告した。
まず熊谷次郎直實入道について、9月14日未刻を以て臨終を迎えると告知していたため仏縁を結びたいと願う多くの僧俗が東山の草庵の周りに集まっていた。その時刻を迎えた直實は袈裟を纏い、礼盤に端座合掌して声高に念仏を唱えて最期を迎えた。以前から病気だった気配は見られなかった人物である。

「法然上人行状絵図」第二十七巻
≪資料2≫(←クリックでリンク先を開く)
建永元年八月に、蓮生は明年二月八日、往生すべし、申ところもし不審あらん人は、きたりて見べきよし、武藏國村岡の市に札を立させけり。つたへきくともがら、遠近をわかず、熊谷が宿所へ群集する事、いく千萬といふ事をしらず。すでに其日になりにければ蓮生未明に、沐浴して、禮盤にのぼりて高聲念佛體をせむる事、たとへをとるにものなし。諸人目をすますところに、しばらくありて念佛をとどめ、目をひらきて今日の往生を延引せり、來九月四日、かならず本意を遂べし、その日來臨あるべしと申ければ、群集の輩あざけりをなしてかへりぬ。妻子眷屬、面目なきわざなりと歎ければ、彌陀如來の御告によりて、來九月をちぎるところなり、またくわたくしのはからひにあらずとぞ申ける。さる程に、光陰程なくうつりて、春夏もすぎにけり。八月のすえにいささかなやむ事ありけるが、九月一日、そらに音樂を

≪資料3≫(←クリックでリンク先を開く)
聞きてのち、更に苦痛なく、身心安樂なり。四日の後夜に沐浴して、やうやく臨終の用意をなす。諸人また群集する事、さかりなる市のごとし。すでに巳刻にいたるに、上人彌陀來迎の三尊、化佛菩薩の形像を、一鋪に圖繪せられて、祕藏し給けるを、蓮生洛陽より、武州へ下けるとき、給はりたりけるを懸たてまつりて、端坐合掌し、高聲念佛熾盛にして、念佛とともに息とどまるとき口よりひかりをはなつ、ながさ五六寸ばかりなり。紫雲靉靆として音樂髣髴たり、異香芬郁レ、大地震動す。奇瑞連綿として五日の卯時にいたる。翌日子刻に入棺のとき、又異香音樂等の瑞さきのごとし、卯時にいたりて、紫雲にしよりきたりて、家の上にとどまる事、一時あまりありて、西をさしてさりぬ。これらの瑞相等、遺言にまかせて、聖覺法印のもとへ、しるしを

≪資料4≫(←クリックでリンク先を開く)
くりけり。往生の靈異すこぶる比類まれなる事になん侍ければ、まことに上品上生の往生、うたがひなしとぞ申あひける。


吾妻鏡:1208年(承元二年)9月14日
行状絵図:1207年(建永二年)9月4日

『法然上人行状絵図』二十七巻によれば、建永元年(1206年)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれると予告する高札を武蔵村岡の市に立てました。その春の予告往生は果たせませんでしたが、再び高札を立て、建永2年9月4日(1207年9月27日)に実際に往生したと言われています。
『吾妻鏡』によれば、承元2年(1208年)9月3日条に直実の嫡男・直家が父が今月14日に往生を予告したと聞いて急遽上洛の旅に出たと記されており、同年10月21日条に偶々上洛中であった東重胤によって直実が予告した日に往生したことが幕府に報告されています。
古くは『吾妻鏡』の記述が信用される傾向がありましたが、『法然上人行状絵図』が法然とその門人の動向に関して詳しく同時代の他の史料との整合性も高い事、建永2年4月1日に九条兼実が直実の往生が予告通りに行かなかった件について法然に尋ねた書状が残っている事、遅くても元久3年(1206年)には東国に戻っていることが確認できる上にその間の法然との書簡が残っている事から、『法然上人行状絵図』の信憑性が高いと考えられています。

追記
光明寺開山八百年記念法要(平成10年・1998年)では慶讃の疏(蓮生上人の功績を讃える法要の際拝読する読物)に「承元元年九月四日称名の声と共に息とどまり寂を示し給う」(承元元年は建永2年)との記述がある一方で、蓮生法師八百回忌大法要(平成19年・2007年)は承元2年を基準に八百回忌を勤められおります。その際の慶讃の疏にも「九月四日称名の声と共に息とゞまり寂を示し給う」との記述があります。
光明寺沿革誌(令和2年発行・第六版)には、承元2年(1208)9月4日と記されておりますが、直前の文章からの流れを読むと、『(略)下国された。是れ時元久二年(一二〇五)夏の頃であった。そのようにして、下向された翌々年の承元二年(一二〇八)になった。』とあり、1205年の翌々年が1208年となっており、どちらとも決めきれない書き方となっております。
西山浄土宗では現在、光明寺縁起に沿って「承元2年(1208)9月4日 熊谷に於いて往生 七十歳」を採用しております。
諸説あり決めきれないというのが理由で、それならば光明寺縁起の記述通りにしようという事が蓮生法師八百回忌大法要にて定められました。

宗門内過去の記録
平成7年(1995)789回忌【歎徳之疏に承元元年九月四日の記述】
平成8年(1996)[機関誌『西山』に記述なし]790
平成9年(1997)791回忌[機関誌『西山』に記述あり]
平成10年(1998)光明寺開山八百年記念法要【慶讃之疏に承元元年(1207)九月四日の記述】
平成11年(1999)[機関誌『西山』に記述なし]793?
平成12年(2000)[機関誌『西山』に記述なし]794?
平成13年(2001)[機関誌『西山』に記述なし]795?
平成14年(2002)[機関誌『西山』に記述なし]796?
平成15年(2003)796回忌[機関誌『西山』に記述あり]
平成16年(2004)797回忌[機関誌『西山』に記述あり]
平成17年(2005)798回忌[機関誌『西山』に記述あり]
平成18年(2006)799回忌[機関誌『西山』に記述あり]
平成19年(2007)800回忌[機関誌『西山』に記述あり]
以後『西山』に記述あり現在に至る

蓮生上人往生の資料一覧
吾妻鏡:承元2年(1208)9月14日 東山の麓で臨終を迎える
行状絵図:建永2年(1207)9月4日 熊谷に於いて往生 七十歳
光明寺沿革誌:承元2年(1208)9月4日 熊谷に於いて往生 七十歳
熊谷系図:承元3年(1209)9月14日 熊谷に於いて病死 八十四歳(父直貞の生年と混同?)
熊谷系図(同書):承元2年(1208)9月14日 年六十八歳
直実入道蓮生一代事跡:承元2年(1208)9月14日 東山黒谷の麓蓮生庵において往生 行年七十五歳

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