大江南楚(だいこうなんそ)上人
上人は当地、六十谷の三宅家の出身で、幼くして法然寺にて得度し、青年の時代より勵学節操にして、志を同じくする仲間の中心的存在でありました。
寛永三年(1626)冬、南楚上人は梶取本山総持寺の第二十二世となります。時に三十四歳の若さです。
上人は教学面において五十巻もの著書があり博学多才で、在住中の総持寺には、修行中の学僧が集まり、その盛大さは他の諸寺院はもとより、東西両本山でさえ殆んど無人寂莫の状況を呈する程だったと伝えられており、宗学の振興に盡せる業績は大なるところであります。
また、紀州の大守 徳川頼宣公の帰依も篤く殿中の斎の供養もこの南楚上人から益々さかんとなり、大衆の論議もその都度、殿中でおこなわれたといわれています。
なお現在も毎年四月十四日に梶取本山総持寺で行われている「善導忌」もこの上人より始められたものです。
慶長元年(1596)の大地震で倒壊した総持寺の本堂の再興、庫裏、客殿、衆寮、鐘楼、大門等を中興され、これは凡そ三十年ぶりに梶取本山の面目をたてなおしたものとして讃仰せられるべきものでした。
上人は、東本山(京都浄土宗西山禅林寺派総本山永観堂)西本山(京都長岡京市西山浄土宗総本山光明寺)の両本山から住持職の招請を受けられたが、双方ともに辞退されております。
また、紀の川の氾濫に苦しむ農民の為、六十谷に堤を築き、農民たちはそれを「南楚堤」と呼び、感謝の気持ちを表したと言われております。
その南楚堤には現在JR阪和線が通っており、和歌山の市民を支えています。
当山には、寛永十五年 梶取本山在任中に観音堂御本尊如意輪観音・本堂内殿鐘を寄進されています。
そして正保元年(1644)上人五十三歳にして総持寺を退山、園部鳴滝に隠棲され、八十歳で遷化されました。